Влади́мир Никола́евич Ло́сский「キリスト敎東方の神祕思想」1957
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「神の似姿」と「神の形象」の違ひ
神學者たちは、人閒の本質における「神の似姿」と「神の形象」といふ槪念の差異について考察してきた。例へばオリゲネスは、神の似姿を創造時に與へられたものと見なしたのに對し、神の形象は後の時代に人閒に授けられたものと考へた。
「神の似姿と形象」といふ表現は、ヘブライ語的表現において一つの槪念を二つの異なる言葉で強調する修辭技法であるが、これらを別々のものとする解釋も存在する。すなわち、「神の似姿」とは人閒に本來備はってゐる神との自然な類似性――理性と意志の力――を指し、「神の形象」は基本的な人閒の性質に附加された神からの特別な賜物を意味する。この形象は神の道德的屬性から成り、「神の似姿」は神の本質的屬性に關はるものである。アダムが墮落した際、彼はこの形象を失ったが、神の似姿は完全に保たれた。人類としての本質そのものは依然として完全であったが、善と聖性を備へた存在としての性質は損なわはた。神の似姿と形象は類似しているが同時に異なる槪念でもある。神の似姿とは端的に人類が神の似姿として創造されたことを指し、一方形象は神の道德的屬性といふ靈的な性質を指すのである。
しかしながら、神の「似姿」と「形象」の閒の中世的な區別は、現代の解釋者の閒ではほとんど放棄されてゐる。C・ジョン・コリンズによれば、「宗敎改革の時代以降、學者たちはこの[似姿と形象の区別]が原文の記述に適合しないことを認めてきた。第一に、『私たちの似姿に』といふ表現と『私たちの形象に』といふ表現を接續する『そして』といふ語が存在しない。第二に、創世記 1 章 27 節は單に『神の似姿に』と記されてゐるだけである。そして第三に、創世記 5 章 1 節では神が人閒を『神の形象に』創造したと明記されてゐる。これらの記述を最も適切に說明するならば、『神の似姿に』と『神の形象に』は同一のものを指してをり、それぞれが互ひを補完し合ってゐると考へるべきである」と述べてゐる。
像 (εἰκών。образ。image)
傳統的イコンにおいては、畫かれる人物・動物・事物は、全て神の光に照らされ安らぎにみち秩序をたもった姿で畫かれ、天上界における本來の姿に從って「抽象的」に畫かれる。イコンの光は神の光を象徵してゐる。從ってイコンにおいて光は影を作らず、イコン畫家が「光」といふ場合、イコンの背景を示す。また傳統的イコンにおいては遠近法の消失點は分割したり限定したりする不純な空閒のしるしに過ぎないと捉へられ、遠近法は逆にされることが多い。遠近法の線は光に包まれたまま神の光榮から光榮へと廣がっていると捉へられる。
このような傳統的イコンのあり方に對し、西歐の影響を受けたイコン畫家達には「目で見える通りに畫く」「人体の細部を忠實に描寫して肉體の美に注意を拂ふ」といふ共通した特徵があった。彼らはビザンティン・イコンにおける嚴肅さ、引き締まった表情、この世を離れたものの表現を「矯正」し、寫實的になるやうに「改善」を試みたとされる。
しかし西歐藝術・「西歐化されたイコン」は 3 次元を捉へて「自然に」畫くが、正敎會のイコンは 3 次元的ではないのであり、西歐藝術はこの世を映し出して鏡を見せるかのやうに提示するが、正敎會の傳統的イコンはこの世の背後にあるものを畫いて提示すると指摘される。
似姿
肖 (ὁμοίωσις。подобие。likeness)
否定の道
狂
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